代表あいさつ

 2019年度の総会において、30年以上民舞研代表をつとめられてきた青木峰子さんが退任され、その後任となりました。よろしくお願いします。民舞研がめざしていることを大切にしながら、これからも子どもたちに「踊る楽しさ」を伝えていきたいと思っています。

 私が民舞研に出会ったのは、和光学園の教師になった翌年の1979年のことです。高学年担任として「都南さんさ」を指導する必要に迫られ、和光中学の布施先生や和光高校の村瀬先生に誘われ、都内の小学校で開かれていた例会に参加しました。当時は「さんさ」や「みかぐら」に取り組んでいたと思います。

 そこで平野正美さんに出会いました。当時は新宿区立の小学校教師でした。笑顔が素敵で、しなやかにダイナミックに踊る青年教師でした。いっぺんにあこがれの存在となりました。平野さんはその後、村瀬先生に口説かれて、1982年に和光小学校の教師になり、私の同僚となりました。同時に私は民舞研の会員となりました。

当時の和光小学校では、布施先生や村瀬先生の協力もあって、運動会の団体演技で「民舞」を導入していました。低学年「かんちょろりん(福島県)」、中学年「そうらん節(北海道)」、高学年「都南さんさ(岩手県)」。どれも「わらび座」が舞台用に構成した踊りでした。

当時、民舞研は「大森みかぐら」や「中野七頭舞」の現地取材を始めた頃でした。平野さんや私も、現地の踊りに強くひかれていましたので、和光小学校の民舞を変えるために、平野さんは低学年で「荒馬」や「アイヌの踊り」などを。私は高学年で「大森みかぐら」や「中野七頭舞」を少しずつ実践しながら根付かせていきました。その後、中学年に「寺崎はねこ踊り」を。6年生に「エイサー」を導入するなどして、現在の和光小学校(和光鶴川小学校)の学年別民舞のカリキュラムが完成しました。(1990年頃)

毎年現地で少しずつ踊りやお囃子を習い覚えながら、子どもたちに伝えていくプロセスは、やりがいがあり、また平野さんや民舞研の仲間との共同作業は楽しいものでした。

私たち民舞研が現地取材を始めた1980年代から1990年代は、学校教育(園の保育)の中に民舞が広がった黄金期でもありました。講習会には人があふれ、民舞研メンバーは各学校や園に呼ばれ指導し、民舞研の機関誌「民族舞踊と教育」にも毎月豊かな実践報告が掲載されていました。

2000年代に入ると、学校現場は急速に変化してきました。「ゆとり教育の見直し」「学力重視」「英語教育の導入」「授業時間数の増加」などで、行事は縮小や精選。教師は多忙になり、民舞を実践する学校は少なくなりました。現地取材を旺盛に行い実践をしてきた当時の若い民舞研会員も、現在は高齢化し現場を離れていきます。そういう私も3年前に和光鶴川小学校を退職しました。

 1968年に発足した民舞研は昨年50周年を迎えました。2年間かけて民舞研と深く関わる保存会や地元の個人を訪問し、民舞研メンバーとの対談と改めて保存会に感謝の気持ちを伝える交流行事を進めてきました。その数10団体(個人を含む)。民舞研と地元との関係の豊かさを象徴する内容です。(詳しくは研究誌「民族舞踊教育研究」13号を参照)私たちが現地取材を始めたころ、元気に活動の中心にいた保存会メンバーも当然のことながら高齢化し、次の世代に道を譲っています。少子高齢化や過疎化が進み、地元の芸能の保存が難しくなる中で、自分たちの芸能が関東地方の学校や園で実践していることは、地元にとっても大きな支えとなっています。「門外不出」の芸能を私たちに開いてくれたその思いにこたえながら、これからも地元との交流は続いていくことでしょう。

 

 前代表の青木さんは、「踊ることの意味」をいつも話してくれました。それは「子どもが踊ること」「私たちが踊ること」「現地の人たちが踊ること」・・・様々な意味が込められています。考え続けたいことです。青木さんには引き続き「顧問」として残ってもらいながら、「いくつになっても踊る楽しさ」を伝えてほしいと思っています。長い間、お疲れさまでした。ありがとうございました。

                                             民舞研代表 園田 洋一(元和光鶴川小学校)

※タイトルの写真は、和光小学校で民舞の実践を始めたころのものです。(1982年ころ)